<はじめに>

 私は大学時代を京都で過ごしましたが、なかでも大好きな場所があります。もみじの美しさで有名な永観堂というお寺で、そこにはご本尊「みかえり阿弥陀様」がいらっしゃるのです。この阿弥陀様は、文字通り、左の肩越しに、ふいと後ろを振り返っておられる。端正で、なんともお優しいそのお顔を仰ぐたびに、私は何ともいえない有り難さで、胸がいっぱいになるのです。

 永観堂にこの阿弥陀様をお連れしたのは永観律師(1033?1111)です。永観は、東大寺別当職を辞した時、護持していたこの阿弥陀様を背負って京に向かいました。ところが、尊像を取り戻そうと、あとから追いかけてきた東大寺の僧に木幡で追いつかれてしまいます。彼らは、なんとか永観の背中から尊像を引き離そうとするのですが、阿弥陀様は永観の背に張り付き、どうやっても離れません。しかたなく、僧たちもあきらめてその場を去ったということです。

 その後のこと。永観50歳の頃、お堂の阿弥陀様のおそばで行道していたところ、突然、阿弥陀様が壇を降りて永観の先に立ち、行道を始められました。茫然と立ちすくむ永観を、阿弥陀様は振り返られ、「永観、おそし」と声をかけられた。それがこのお姿ということです。この時のお姿を詠んだ永観の歌をご紹介しましょう。





 みな人を 渡さんと思う心こそ
 極楽にゆく しるべなりけれ      (千載和歌集)

 私がこの「みかえり阿弥陀様」を、心底、有り難い、と思うのは、やはり何より、その「見返って」くださっている姿、肩越しにすっと「振り返って」くださっている姿、その姿勢に、なのです。

 同じ京都の洛北、三千院往生極楽院の阿弥陀三尊像の脇侍、観音菩薩と勢至菩薩のお二人が少し前屈みになっていらっしゃる姿にもまた、この「みかえり」と同じような「呼びかけ」を私は感じます。

 つまり、ここには、大乗の精神が見事に結晶している。

「永観、おそし」という言葉は、何やら叱咤のように聴こえますが、お顔を見れば、決してそうではない。永観が感じ取ったように、「どんな人でも、とにかく、皆を、全ての人々を、浄土へ渡そう」とする、そのための「みかえり」。「ついておいで、さあ、一人残らず」と、最後の一人までをも「見極めようとする」その「慈悲」の「みかえり」。

 極楽院の阿弥陀像も同じです。「ここにおいで、さあ、一人残らず」と身をかがめて衆生をすくいとろうとなさっている。その「慈悲」の姿勢。

 この本で、大乗仏教のめざすもの、として、私は「菩薩の願い」、すなわち、「誓願」のことをとりわけ強調したいと思います。

 菩薩の誓願とは「衆生無辺誓願度(生きとし生けるものは限りない、私は彼らを必ずや、彼岸へと渡そう)」ということです。大乗仏典にはさまざまな菩薩が登場しますが、そのすべての菩薩に通底しているのは、無量の衆生の救われのために、無量劫修行を行おう、というゆるぎない願い、すなわち、「慈悲の心」と「永遠の利他行」なのです。

 数えきれない生きとし生けるもの、その全てを彼岸へと渡す、その終わることのない修行を私は行おう。

 それこそが、菩薩の願いであり、大乗仏教の核心です。ですから、京都の「みかえり阿弥陀様」の、今も変わらず、私たちを「振り返って」いてくださるお姿、そこに私は「菩薩の願い」の一つの究極の形を感じ取るのです。

 そうして同時に、私もまた、私の周囲の誰かを、あるいは、遠く離れた誰かを、常に振り返る気持ちを持ちたい。





 昔も今も、この世の様々な苦しみや悲しみは、絶えることがありません。私が今、苦しみや悲しみに運良く襲われていないなら、いえ、私が今、苦しみや悲しみに運悪く襲われていたとしても、だからこそ私は、私とともにある誰かをいつでも振り返る心を持ちたい。

そうやって、ひとりひとりが、誰かを振り返る心を持つなら、この世の様々な苦しみや悲しみを、ほんの少しは減らすことができるかも知れません。

 そういう「願い」とともに、本書を綴ってみたいと思います。