〈終わりに〉

 京都で物理学を学んでいた私は、卒業するころから人間が生きることの意味を問うことを正面に据えて生きていきたいと思いはじめ、学部を卒業するとともに実家のある東京へ戻り、仏教を勉強することにしました。

 当時の仏教研究では、理論書である「論書」を研究する人が多く、経典は内容が理論的でなく研究論文の対象にはしにくいためか、その内容そのものをとりあげる研究者はあまりいませんでした。けれども、私はまず大乗仏教の経典である『十地経』を学びの対象としました。それは、私の師であった玉城康四郎先生の「仏教をほんとうに理解したければ経典を読まねばならない」という言葉が心に深く響いたからでもあり、また高崎直道先生の「経典というものは読むたびに何か大切なことを学び取れるものだ」という言葉が印象的だったからでもあります。

 仏教の経典は、キリスト教やイスラーム教の聖典とは違い、漢訳されて現存するものだけでも千種類以上もあります。もちろん、私はそのすべてを読んだわけではありませんけれど、確かに、経典はどれも面白い、原始仏教の経典も大乗仏教の経典も。しかし、原始仏教と大乗仏教の経典では、説いていることがまったく違うではないか、これはいったいどういうことなのだろう、そんな疑問もありました。経典を学びつつ、私はその学びの初めから、仏教のもっとも大切なことは何なのだろう、仏教っていったい何を言いたいのだろう、そんな疑問をずいぶん長いあいだ懐き続けてきました。

 原始仏教にも様々な経典がありますが、それらは「解脱」とか「涅槃」といった個人として完結する宗教的な目覚めを目的とすることは分かりました。

 しかし、ゴータマ・ブッダが亡くなって四百年ほどして興起してきた大乗仏教は、様々なグループの菩薩たちが数百年にわたって各地で展開していった新興宗教であり、原始仏教におけるゴータマ・ブッダのような一人の偉大な「教祖」がいないのです。ですから、大乗仏教の経典は、「これが大乗仏教だ」というような一貫した根幹となる思想を見出しにくいのです。「大乗仏教」という枠組みを無条件に設定することさえ疑問に思われました。

 そんな中で、あるとき私は大乗仏教の経典に「一切衆生」という言葉が頻繁に現れ、しかもそれが救済の対象として新たに登場してきたことに気付きました。私はこれを「大乗仏教における他者の発見」と名づけたのですが、それは私にとって大乗仏教を理解するためのキーワードとなりました。私は今、その「他者の発見」を大乗仏教の多様な教理の根底にある思想として理解し、大乗仏教とはそれまでの伝統的な仏教教理を「他者の発見」を原理にして革命的に「再解釈」して形成されていったものと考えています。この「他者の発見」が人類の精神史上でもつ意味は本書の序章で述べたとおりです。

 ここ数年、いくつかの大乗仏教の経典を読みながら、私は具体的な教理で語るとすれば、大乗仏教の目指すものは「菩提の完成」であり、「菩提」とは「一切衆生と共に」という「誓願」であると確信するようになりました。本書の題名を「菩薩たちの願い」とした所以です。

 二年ほど前の春、NHKのディレクターである田辺祥二さんと石原元典さん、NHK出版の吉田隆一さんと増田正代さんが、私を訪ねてきてくださり、その年の秋から半年間、NHKラジオの「こころをよむ」という番組で話しをしないかという提案をしてくださいました。ラジオ放送で話すことなど、私には未経験のことでしたから、躊躇しましたが、自分が理解している仏教を、より多くの人びとにメッセージとして伝えたいという想いもありましたから、思い切って引きうけることにしました。

 お話しを頂いたのが春、それから三ヶ月でNHKのラジオ・テキストの原稿を作りました。十月の放送開始と同時に刊行されたラジオのテキストは、ほぼそのときの原稿のままです。その原稿をもとに、八月末からラジオの収録が始まりましたが、原稿はゆっくり読んでも二十分で終わってしまいますから、四十分の放送のために、テキストの原稿にさらに自分の考えをメモとして書き込んで準備しました。そのメモや、放送中に気付いたことを本文に書き込みながらできあがったものが本書です。

 ささやかな書物ですが、大乗仏教のいくつかの経典を通して、私が学び取った仏教の根源、大乗仏教の根底にあるもの、それを綴ったものです。最後になりますが、自分が長年考えてきたことをこのような形で出版し、またラジオ放送を通してより多くの人びとに自分の想いを贈る機会を与えてくださった関係者のみなさまに、こころより感謝いたします。