私の視点(722日 朝日新聞朝刊13面) 

浄土真宗本願寺派門主 大谷光真 

宗教者の役割 違いを保ち、責任の共有を 

 北海道洞爺湖サミットを前に、私たち世界各地の宗教者は札幌に集い、世界の平和と地球的課題の克服への願いを話し合う会議を開きました。

 宗教の役割は経済や軍事に比べて明瞭ではありませんが、人間のいのちの根本を支えるもので、社会に大きな影響を与えています。宗教への対処を誤れば争いの火に油を注ぐことになります。宗教者の過去の過ちを謙虚に認め、自らの宗教伝統にのっとり、争いを防ぐよう努め、宗教が政治に悪用されない気を付けなければなりません。

 紛争に際して宗教間の対立が注目されますが、この世を生きる上での倫理にはかなり共通するものがあります。私たちは宗教の違いを保ちつつ、共通性を探し出し協力すべきです。

 現実には、諸宗教を統一したり、調和を図ったりすることは易しくありません。しかし、社会の現実を前にした時、宗教の違いを超え、協力する通が開かれてくると確信いたします。一例を挙げれば、中国四川省の大地震では国家や宗教の違いを超え、助けたいという思いを多くの人に抱かせました。ところがイラク戦争においては、味方の犠牲に心を痛める人々が、敵側の犠牲には痛みを感ぜず、拍手する人まであります。

 犠牲者の多くは罪のない庶民や弱い者です。敵味方というとらわれを離れ、悲惨な現実を目の当たりにした時、心の痛みを感じないはずはありません。事件や紛争、飢饉や飢餓という現実を偏見少なく見つめるところから出発したいと思います。

 弱い立場の人々はしばしば極端な方法で抗議し、かえって解決を遅らせます。動植物は被害を訴えることもできません。宗教者には率先して悲惨な現実を知ることを、政治経済の指導者にはたとえ自分に不都合でも現実を認めることを期待します。

 札幌での宗教者会議では多くの提言がなされましたが、基本は「共有される安全保障」という考え方です。相互関係、相互依存で成り立つ世の中で、自分たちだけが安全であればよいとする態度は、周囲に不安を与え、かえって全体の安全を危うくすることにつながります。

 安全保障のなかでも地球環境核兵器の問題は、子孫への責任という意味でも、国境を超えた共通の責任という意味でも、一人ひとりの宗教的態度と深くつながります。仏教の開祖・釈尊は「すべての人は暴力をおそれる 生命はすべての生きものにいとしい」 (ダンマパダ130)という言葉を残しました。

 仏教の立場から世の中の悲惨な出来事を見ます時、多くの場合、人間の欲望と深い関係が感じられます。人間は欲望なしには生きられませんし、世の中の発展もありませんが、一部の人々が節度なく、欲望をひろげる時に対立が生じ、動植物を含む環境の汚染破壊が進みます。

 人間は地球上の複雑な繋がりの一部分を担っているのです。