菩薩さま

 これまで仏教を学んできた途上で、二人の偉大なお師匠さまに出会ったことは私にとってとても幸運なことであった。中村元先生と玉城康四郎先生である。玉城先生はひたすらにゴータマ・ブッダの目覚めを探求し、冥想の実践のなかでダンマが自己の業熟体に顕現することに命を懸けて励んだ聲聞さま。それに対して、中村先生はその広汎な学問はもちろんのこと、仏教原典の平易な現代語訳や仏教語大辞典の編纂、そして東方学院の設立・運営などからもよく知られているように、学問を通してひたすらに人びとのために命を捧げた現代の菩薩さまである。

 中村先生の浩瀚な学問やその公的な社会的活動に関することは、よく知られており、また多くの人びとによって語られるであろうから、これもまた菩薩としての中村先生の生き方を伝えるものとなることを願いつつ、ここでは私の中村先生に対する極めて個人的な想い出を記しておきたいと思う。

中村先生には学問的にお世話になっただけではない。より重要な意味で、私の人生の岐路には必ずといってよいほどに中村先生の姿があった。幼い頃から天文学やら理論物理学に憧れて京都大学の理学部に入学したものの、人並みに「人生如何に生きるべきか」に悩んだ私は、理学部の講義にはほとんど出席せず、西方の哲学書をろくに理解できないままに系統性もなく読んでいた。そんな生活をしているうち、私は物理学を学ぶことを放棄し、自分の人生の意義を真正面に据えて考えていけるような学問をせねば自分が生きたことにならぬという強迫観念に駆られ、周囲には物理学などという形而下の学 physics から形而上学 metaphysicsへの転向だとうそぶきつつ、哲学の勉学に向かうことを心に決めた。しかし当時日本の大学は「大学紛争」の最中、ことに京大文学部は無期限ストライキが続き、文学部に転部したところで学問どころではない。

気に入った哲学書を素人として読むだけでなく、学問的にも厳密な訓練を受け本格的に哲学を勉強したいと願いつつも、私には何の手がかりもなかった。そんなある日、父との因縁で幼い頃から存じ上げていた中村先生の「困ったことがあったら、いつでも相談にいらっしゃい」と言ってくださっていた言葉をフッと思いだした。中村先生のご自宅をはじめて一人で訪ねた私は、緊張しきったまま自分の考えを述べた。すると先生はあのいつもの慈顔で「こころざしは大切にしなさい。今の日本の大学では勉強できないから、ドイツにでも行って勉強していらっしゃい。来週ハワイで東西哲学者会議があるから、ドイツの知人に頼んで決めてきてあげましょう」と応えてくださった。

先生の折角のご厚意にもかかわらず、頃合い悪く私は体調不良におちいり、この留学は実現しなかった。二度目の訪問は数年後である。西洋の思索が、哲学と宗教とに分かたれて思索され、研究されていることへの疑念から、私はラーマクリシュナとかオーロビンドといった現代インドの宗教思想家に惹かれるようになり、今度こそ当然のように、中村先生を訪ねた。先生はインド思想・仏教学を学ぶための心得のようなことがらをいつものように優しく説いてくださり、励ましてくださった。翌年私は東京大学へ入学し、インド哲学を専攻する大学院生となった。学生運動が盛んであった当時、真偽のほどはともあれ、東京以上に激しい紛争が続いていた京都(京都大学)からは学生を採らないという不文律?が当時あったという噂を聞いたのはずっと後のこと。

私が東京大学に入学したその年に中村先生は東大を定年退官なさったので、大学という公式の場で先生にお目にかかったのは大学院入試の面接の日一日だけである。中村先生が学問的に如何に偉大な研究者であるかを私が知ったのは大学院に入学した後だった。そんなことも知らずに気楽に先生のご自宅に伺った自分の無知を私は密かに恥じた。私にとって、先生はそれまでは単なる父の知り合いの親切な東大教授でしかなく、その前人未踏の学問的業績は、あの大きな人格的風貌に包み込まれ、目に見えるのは慈顔の菩薩の姿だけだったのである。

 インド哲学や仏教学を学びつつ、学問的にも経済的にも紆余曲折を経るなかで、相変わらず困ったときの神頼みのように時折中村先生をお訪ねしては御助力いただきつつ、私は博士課程に進学し、中国仏教を専門とするようになった。そのうち、中国のことを研究しているからにはどうしても中国に留学しなければならない、自分は遣唐使を再開するのだ、そんなことを誇大妄想的に考えるようになった。そんな折、日本と中国とが国交を回復し、私にとって念願の中国との公式の留学生交換が1979年から始まった。中国になど留学したら頭が固くなって帰国後に「使い物にならない」などという周囲の反対にも拘わらず、私は第一期の留学生に当然選ばれる資格があると勝手に決め込んでいた。しかし面接でその筋では高名な国際関係論を専門とする東大教授に「今の中国には仏教を研究している人はいないから、中国に行っても無駄ですよ」と言われ、果たして結果も予想通りであった。思い余った私は、翌年の留学生選考の前に中村先生にお目にかかり、自分はどうしても中国に留学せねばならぬという誇大妄想な思いをありのままに申し上げたところ、先生は笑顔で受けとめ、それは是非実現しなさいと仰ってくださり、「選考委員長はどなたか判りますか?」と尋ねられた。私はやや気が引けつつも、どうしても中国へ行きたかったために、先生にお願いしたのであった。その年の秋、念願の留学生に選ばれ北京大学に留学が決まる。それだけでなく、中村先生は私が中国へ出発する前に季羨林・北京大学副学長にご連絡してくださっており、私がまだ中国語の訓練が充分でないと判断した季羨林先生は、私の到着の2日後には北京大学内に漢語学習班(外国人向け中国語クラス)を創設して下さった!これもまた中村先生の神通力。

このように私事にわたることも含め、中村先生から受けたご恩ははかり知れず、ここに記したことはその一端に過ぎない。中村先生は仏教の「平等」の精神を実践されていたから、随分と多くの、きっと数え切れないほどの人びとが中村先生に学問を、そして人生を導かれてきたに違いない。

ところで、中村先生がお元気だったころ、先生にお世話になった、あるいはお世話になっている人たちが毎年初め、先生のご自宅にご挨拶にうかがうことが恒例であった。お忙しい先生から年に一度だけゆっくりお話を伺える楽しい会で、お汁粉が大好きであった先生は、糖分をとりすぎることを心配なさる奥様のご注意もまったく気にせず、昼過ぎから次から次へとやってくる来客相手に、お汁粉を何杯となく賞味されつつ、談論を楽しまれていた。しかし、そんな楽しかった新年会も、特に冬の寒さに配慮が必要となった先生のお身体の具合のこともあり、晩年にはおこなわれることもなくなっていた。ある歳始め、どうしても先生にお目にかかる必要が生じ、正月早々に先生のご自宅にお伺いすることとなった。事務的な用件をさっさと片づけてお暇しようとする私を引き留めて、先生は瞑想をするかのように目を閉じられ、ゆっくりと先生の想い出を話し始められた。「一高時代からの友人が歳と共に段々と少なくなってきます」と仰った時、先生は突然に涙を浮かべられた。お若いときから中村先生がどれほどに友人を思い、大切にしてきたかを父を通して聞いていただけに、その涙はいっそう心に染み、この時はじめて私はまさに菩薩さまの哀しみを知った思いであった。

仏教を学び初めて以来、狭義の学問的には、私は玉城先生のダンマの理論に従って勉強をしてきた。そして今、私にとってもっとも切実な思索的課題は、玉城ダンマ理論には稀薄であると感じられる「仏教における自己と他者」の問題、つまり慈悲に関する課題である。大乗仏教の興起にともなってその中心的課題のひとつとなった慈悲の思想は、残念ながらその後の仏教の歴史の中で理論的にはさほど議論されてこなかったといえよう。そのような状況の中であればこそ、中村元『慈悲』は大著ではないにもかかわらず、21世紀に向けての仏教学がその中心的課題とすべきことがらを指し示しているという意味で、私一人にとってのみならず、仏教を考えようとするあらゆる人びとにとって、きわめて重要な著作である。

中村先生が、その生き方を通して、まさに身を以て菩薩の在り方を私どもに示してくださったその道を、私もまた私なりに歩んでゆきたいと思う。
(2000年夏)




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