私は誰?

今の若い子たちは物事をどんどん考えなくなっている、とよく言われる。そんなことはない。大学で彼らと接していると、むしろ彼らから学ぶことのほうが多い。

先日、私は大学生たちに“これだけは絶対に確かに在る”と言い切れるものがあるかどうか、尋ねてみた。答えはほぼ三通りで、最初に出てきたのが“人は必ず死ぬ”ということ。人の死は、誰もが抱える避けて通れない事柄であって、これだけは絶対に誰もに在る、ということなのだった。私は、問いかけの一番最初に、しかも二〇才そこそこのしっかりお化粧した茶髪女子学生から、いきなりそんな答えが出てきたのに、とても驚いた。二十歳と言えば青春のまっさかり、どこもかしこもキラキラ輝いて、未来という時間は無限にあるように見えているんじゃないか。そんな思いこみがあったから、全ての人間が抱えているのは死にいたる時間、などという感覚が何やら暗すぎるように感じたのだ。でも、ふっと自分のその年頃のことを思い返したら、そうだ、生きることの意味とか、それに付随する死のこととかを真正面から考えていたっけ、と頷けたのだった。二つ目は“自分自身”。三つ目は“愛情”、つまり自分を取り囲む周囲の人々との関係というようなことだった。

その二つ目の“自分自身”だが。「自分が自分であることは絶対に確かに在ることだ」。え、自分が自分であることって、どういうこと? どうやって確かめる? 私は学生に、さらに尋ねた。答えは「こうやって考えていることそのもの」とか、「先生と今、話していること、それから机とか椅子とか僕のまわりのそういう物から感じ取れる??」。そう言いつつ、みんな「自分っていうけど、それってそんなに確かなものだろうか。自分の気持ちや考えることは形がないから不確かで、しかも自分にしか分からないから誰にも証明できないし??。」と一様に考え込んでしまうふうだった。

かつてデカルトというフランスの哲学者が「私が考えているということ。この考えている自分というのは確かに在るのだから、我思う、ゆえに我在り、だ。」と思い、これはとても有名な言葉、いわば近代の哲学の基礎になったのだが、まさに学生たちはそのように自分たちのことを感じ取ったのだった。おお、すごいではないか、と私は内心、感嘆した。彼らが「我思う、ゆえに我在り」という句をすでに知っている、とはあまり思えなかったので。

それに「考えている自分」からさらに、私との会話や自分の周囲へと眼を拡げて、そこに“自分自身”を見いだす、とは、これまたなんと凄いことだろう。私は学生にまた問いかけた。

「君の座っているのはどこ? 手を置いているのは何?」「椅子と机。」「それが君の“在る”ってことを感じさせる何かだとしたら、つまり物との接触、そこに“ここに在る自分”が確信できるって感じかな?」 そうそう、と彼は頷く。そうして、人間同士も同じみたいだ、と考えを巡らす。誰かとの触れ合い、言葉であれ、身体であれ、それも椅子や机と同じ“接触”あるいは“抵抗”もしくは“障害”というパターンで自分に向かって来るし、それによって自分の在り方も確かめられる??。今、先生と話している、そのことで僕は僕を実感できる、まさにそれが接触なわけだし??。

そう、もし私の周囲に私をとりまくモノがまったく何もなかったら、私は私という実体をどうやって確かめられるだろう? もし私の周囲に誰か、私以外の誰かがいなかったら、私は私であることをどうやって確かめられるだろう? 私たちは絶えず何ものかと接触しながら、それとの関わりで私たち自身を形作っている。いわば関係性の編み目のなかではじめて自分自身を自覚する、在らせることができるわけだ。

そこで三つ目の“愛情”つまり“愛”がくる。関係というのは、自分との距離によって測られる。このひととは“通じ合える、わかりあえる”という感触は、人間をとても幸福にする。一方、全然通じない、分かってくれない相手に対しては疎外感と、もっと甚だしくは敵意さえ抱く。“愛”が理解という一体化なら、“憎しみ”は無理解という反発が生み出す。その両極の間を微妙に揺れながら、私たちは私たち以外の誰かとの関わりを様々に結び、そこに自分というものの像をも結んでいるということなのだ。

でも、この“理解”とか“愛”というのは、ほんとうにやっかいなもので、私たちはつい、日常のなかであたかも自分自身が在るのは自分自身の力?によってである、というふうに思い上がりがちだし、理解も愛も自分に引きつけ、いわばジコチュウ(自己中心主義)的に感じ、考えてしまう。そうして、このひとは分かってくれるから好き、こいつは言葉の通じない嫌な奴、というふうに関係を規定してしまい、なんとなく安心するのである。

彼らとの壮大な結論。“私は何者か?”??“私は私以外の誰かによって支えられてはじめて私であるところの者である”なら、世界中のひとがみんないつでもそういうところで物事を感じたり、考えたりするのなら、人間同士の戦いや殺戮は避けられるのではなかろうか。自分の周囲の人々、もしくはモノたちとの間柄について真剣に考え、真っ直ぐに向き合うことができるなら、いつか世界は平和になる??。

それにしても、自分の中にある“愛”こそが絶対に確かなものだ、と胸を張って言った女子学生に、私はため息が出るほど感心し、讃歎してしまった。21世紀を担うであろう若者たちの眼差しや心はこんなに光に満ちているのです。

丘山 新



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