【受けとめとしての念仏】
『歎異抄』「彌陀ノ誓願不思議ニタスケラレマイラセテ、往生ヲハトクルナリト信シテ、念仏マウサントオモヒタツココロノヲコルトキ、スナハチ攝取不捨ノ利益ニアツケシメタマフナリ。」
宗教の極致を示しているこの言葉を、今、あらためて考えてみたいと思います。まず、私なりの解釈を示しておきます。詳しいことは後に記しましょう。
1)【彌陀ノ誓願不思議】とは、如來・弥陀から常に働いて止むことのない、人間の思議、慮り、計らいを遙かに超えた働きであり、
2)【タスケラレマイラセテ】とは、その働きを受けとめ、働きによってすでに救われているという事実であり、従って人間の主体的な選択による「自力」「他力」の問題ではなく、すべての人が阿弥陀からの働きを受けているという事実であり、
3)【信シテ】とは、「如来ヨリタマワリタル信心」という言葉からも知られるように、より適切には「信じさせられる」「心から頷かされる」という根元的かつ受動的な事態であり、自分の判断に基づく意思としての「信じる」「思いこむ」「盲信する」ということではなく、
4)【ココロノヲコルトキ】とは、自分の意思で「心を発する」というのではなく、阿弥陀からの働きを受けとめ、それを「実感する」という、超越者としての阿弥陀と人間との関わりにおける人間の側からみた、これもまた「受動的」な出来事にほかならない。
では、私たちはどのようにして「誓願不思議」なる力を受けとめられるのでしょう?それを実感できるのでしょうか? この問題を主としてインド大乗仏教を資料にして、考えてみたいと思います。
紀元一世紀前後から、仏教思想史の流れのなかで新興宗教運動が起こってきました。その最初期の経典としては、浄土経典(漢訳『大阿彌陀経』)と般若経典(漢訳『道行般若経』)とが有名ですが、ここではこの二種の経典にやや遅れて創作されたと考えられる『般舟三昧経』(「現在諸仏が現前する三昧」)を取り上げます。
インドの仏教では修行として冥想が不可欠のものとされていました。原始仏教では「戒定慧」の三学のなかの「定学」であり、大乗仏教では六波羅蜜のなかの「禅定波羅蜜」です。ところで、原始仏教では冥想を表す様々な言葉が遣われていましたが、不思議なことに大乗仏教では「三昧(サマーディ)」という言葉が強調され、『般舟三昧経』といった「三昧経典類」が創作されていきます。この三昧経典とは「三昧のなかで仏に見える」ことを強調した経典だと言われていますし、インドでは紀元一世紀後半から仏像が創作され始めてくる事実とも呼応するのです。しかし、『般舟三昧経』を読んでいくと、単に仏に見えることだけを目的にしているのではなく、「仏に見える」ことと「教えを聞く」ことがセットになって説かれていることが分かります。つまり「見仏・聞法」ということが、この経典の主題なのです。冥想の中で仏に出会うだけであれば、仏像を創ってそれに向き合うことと大した変わりはありませんから、従って「聞法」こそがより大切だということが分かります。
それでは「聞法」とは何なのでしょう?冥想の中で教えを聞くとは?
1)まず、大乗仏教の経典も初期仏教経典と同じように「如是我聞(このとおりに私は聞きました)」という言葉で始まっています。原始仏教経典でのその建前的な意味は「(歴史上に存在した)釈尊から私(阿難)は聞きました」ということなのですが、大乗仏教の経典は釈尊の滅後400年ほども後から創作され始めたものですから、「釈尊から聞きました」という意味ではあり得ません。彼らは三昧の中で直接に「永遠の如来」に見え、そして霊感を受け教えを聞きとめ、それが大乗仏教の経典になったのです。すべての大乗経典がそのようにして創られたかどうかは分かりませんが、少なくとも理念的にはそう考えていたのだと思われます。2)しかし果たして「聞法」とはそういう意味だけに限定されるのでしょうか?私にはそうは思えません。「聞法」の「法」は「言葉としての教え」という意味もありますが、より根元的な意味では「真理」そのものであり、故玉城幸四郎先生が強調して已まなかった「ダンマ」です。「聞法」とは、究極的には真実の世界から流れ出てくる言葉にもならない不可思議な力を受けとめることに他ならないのではないでしょうか。まさに「法界等流聞熏習」です。
ところで、大乗仏教では現在も多くの仏・如来が存在する、ということが強調され、当然とされるようになりました。阿弥陀仏や、また『法華経』での「久遠實成仏(永遠の仏)」がそれです。これはいったいどういうことなのでしょう?彼らは三昧の中で仏・如来に出会える、出会うことを実感するようになったのです。「如是我聞」の絶対性もこの確信に基づくものだったのです。ただし、仏・如来が現在も、そして永遠に存在するといっても、「存在する」ことがもっとも大切なことではないのです。大切なことは、仏・如来が永遠に働き続けている、私たちに働き続けている、という事実です。あたかも太陽が光を注ぎ続けているように。
「彌陀ノ誓願不思議」とは、このような働きそのものであり、そして「念仏」とはまさにその不可思議な働きを受けとめること。阿弥陀の本願力や神の愛の働きは、私たちが感じ取ろうが取るまいが、私たちの計らいを超えて、つねに私たちに注ぎつづけて已むことがない。それが「攝取不捨」ということ。そういう本願力や愛の働きを受けとめることこそが念仏の究極の姿なのだと、私は思います。