祈り

 ステンドグラスから虹色の光が差し込むイタリアのカトリック大聖堂で、老婆ようにひっそりと夕べの祈りを捧げている。ある時はドイツの小さな街の中心にある教会で、練習中のパイプオルガンの調べを聴きながら、若い男女のカップルが佇んでいた。ニューヨークの摩天楼・五番街の教会では、毛皮のコートを手にした婦人が跪き、その傍らには片足を失った青年が悄然と立っている。また、マリア像が微笑むブラジルの教会で、たくさんのロウソクの灯が揺れる祭壇の前に、洗礼を受けたばかりの赤ん坊を囲んだ晴れやかな大家族の顔があった。そしてある時は、照り返す熱い陽射しに蒼いモザイクの美しいイランのモスクで、戦争で息子を亡くした黒衣のチャードルの母親の、慟哭する声が高く響いた。茜色の空の下、マレーシアのイスラム寺院では、日没のコーランを唱え聖地に向かって礼拝する、絵のような労働者たちの一群があった。またある時は、黄金色が目映いタイの大伽藍で働き者の女たちが手に手に蓮の花と供物を携えて、黄金色の仏像を伏し拝んでいる。線香の煙がもうもうとたちこめ、通りの喧噪も騒がしい台湾の寺院では、商人たちが手に手に御札を握りしめて、熱心に拝を続けている。スリランカの僧院の深い庇の下では、みすぼらしい身なりの老尼が地面にペタリと座り込んで、数珠を一つ一つ繰りながらぶつぶつと経文を唱えていた。世界中の何処の国でも例外なく、雪の降りしきるロシアの教会にも、何ごとか真摯に祈る人々の姿があり、社会主義の国である中国でも、イスラムの寺院である各地の清真寺には人影が絶えることがなく、また北京や上海の教会では日曜日の礼拝時に人があふれる。

 祈らずにいられない人びとの現実。老いの不安、病気の苦しみ、愛する肉親の死、愛し子の誕生、人が生きてゆくということは、苦しみの時があり、楽しい歓喜の時もある。苦楽が織りなす人間の一生は、この広い地球上の何処へ行っても同じ、逃れることの出来ない、人が背負った宿命である。そしてその喜びや悲しみ、不安や苦悩の数だけまた人びとの祈りの姿がある。喜びの祈り、悲しみの祈り、苦悩の中での祈り、そして感謝の祈り、ひとは人生のさまざまな場面でこうべを垂れて両の掌を合わせ、祈る。祈りの内実はさまざまではあるものの、祈りの姿は美しい。

 いったいひとはいつ頃から祈りの姿をとり始めたのであろう?はるか数千年前の人びともすでに祈っていたに違いない。誰に教えられるということもなく、人としてのこの限りなく美しい姿で、かれらは祈り、そして私たちもまた祈る。

 古代の人びとは荒れ狂う自然を前にして豊作を願い、突如襲ってくる艱難から救われることを願い、この世での苦しみの果てに来世での幸せを願った。そして今や科学の万能を信じ、豊饒な物質の洪水に溺れ、仏や神を忘れてしまった現代日本の人びとさえ、毎年初めには神社や仏閣に出かけ、人それぞれに様々なことを神仏に願う。そういう現世利益的なことごとを神仏に請い求める願いもまた祈りに違いないし、そういう願いもまた私たちの辛く悲しい心のありようをそのままに映し出したものであればこそ、そういう祈りにこめられた願いを否定したりする必要もあるまい。

けれども、そういう現世利益的な願いだけでなく、悟りたい、あるいは救われたいという願いさえ、それが自分の為に願われるものである限り、宗教的には、あるいは真に信仰の立場からは否定されるものなのではなかろうか?祈りが願いである限り、そして願いというものが私たちの欲望に根ざすものならば、それは所詮ゴータマ・ブッダやイエス・キリストが観た苦しみの根源である我執とか欲望、あるいは自己中心的な想いに他ならないのであろう。

 その究極の姿において、祈りとは受けとめであるといえよう。受けとめること、これこそが祈りの根源的な在り方だと、私は思う。私たちが苦悩と悲しみのなかで祈るとき、祈りの姿をとるとき、さまざまな雑念に逐われ、濁色に覆われた心は、切実だった願いさえいつしか絶えて、静寂に包まれてくる。そんな祈りの果てに心にときおり聞こえてくるのは、いつも決まって「そのままでいいのだ」というひと言のみ。それ以上にはなにも聞こえてこない。ただそれだけである。悲しみや苦悩のまっただ中で聞こえてくる「そのままでいいのだ」という言葉はなにを意味するのであろうか?

 阿弥陀も神も、私たちの願いや期待が世間的なものである限りにおいて、なにも応えてはくれないであろう。そうではなく、阿弥陀も神もどんなことがあろうとも私たちを決して見放さない、見捨てないということなのだ。苦悩のままに苦悩せよ、果てない悲しみには限りなく涙を流すがよい、阿弥陀や神はそういう私たちを現にそのままに抱擁している。「攝取不捨」とはそういうことなのだ。阿弥陀や神と私たち一人一人との根源的な関係が、この「そのままでいいのだ」という言葉に込められているのであろう。

  阿弥陀の本願力や神の愛の働きは、私たちが感じ取ろうが取るまいが、私たちの計らいを超えて、つねに私たちに注ぎつづけて已むことがないという。そういう本願の力や愛の働きを受けとめることこそ祈りの究極の姿なのだと、私は思う。