第25節 私たちの願い

 今、日本の私たちは、とりあえず、平和のなかに暮らしています。先の太平洋戦争以来、不戦を誓った憲法とともに、とにかく日本はどこの国とも戦火を交えずにここまで歩いてくることができたのです。

 ふりかえってみれば一八六八年の明治維新の後、七七年の西郷隆盛らによる西南の役を最後に、日本の中での日本人同士の戦い、殺戮(それはやはり戦争、でした)は終わっています。けれども西欧にならった近代国家日本への変貌とともに、今度は周辺の国々へと争いの矛先は向けられ、一八九四年の日清戦争、一九〇四年の日露戦争、十四年の第一次世界大戦、そして四十一年の太平洋戦争、と、日本は終戦までの五十年間あまり、四回も他国と戦争をしているのです。

 つまり、戦後六十年余の平和な時の流れに対し、戦前はこれより短い五十年の間に四回も外国と戦争をしていた、ということです。この六十年、戦争のない日本、戦火に巻き込まれずにいる日本、戦火を交えずにいる日本であることは、近代史上ほとんど奇跡にちかいことなのだ、と、ふと私は思うことがあります。

 「奇跡的」とは、通常ではありえない、ということです。では、通常の世界とはどんなものでしょうか? ちょっと周囲を見回してみれば、世界は相変わらずどこかで、誰かが傷つき、血を流している。争いも殺戮も、少しもなくならない。規模こそさまざまでしょうが、人と人との争い、国と国との争い、宗教間の争い、民族間の争い、これらははるかな昔から果てしなく続いているのです。

 それはなぜなのでしょうか。ゴータマ・ブッダは、この世の争い、「苦」の全ての因を「無明」、すなわち人間の奥深い愚かしさであり、また「渇愛」、すなわちのどが渇いた時に求める水のように激しい「欲望」である、と見抜きました。

 これは、つまるところ、人間の利己性によるものです。身体的な単位として、元来、閉ざされた自己のあり方をしているからです。そうしてこの利己性は、ひとりひとりの個人的なものばかりではなく、社会、国家、民族といった枠組みでも同様です。

 個人ばかりでなく、国家や民族の「欲望」、その「利己性」が、「苦」や絶えることのない争いの因となっているのです。





 ハンチントンが文明の衝突を予見したと同じ頃、やはりアメリカの生物学者リチャード・ドーキンスが『利己的な遺伝子』という著作で、生物学における遺伝子、つまりDNAの利己主義と利他主義について論じ、大変話題になりました。彼はこの書で、生物の遺伝子の欲望は「生き残ること、永遠に生き続けること」であると説き、したがって「普遍的な愛とか種全体の繁栄とかいうものは、進化的に意味をなさない概念にすぎない」と言ったのです。一見利他のように見えるふるまいも、実のところは自己の永続のための利己的な方便である。人間の身体は自己の生存をひたすら欲望する遺伝子の「乗り物」にすぎないとも言いました。

 ここに「乗り物」という言葉や概念が出てくるのを私は大変面白く思います。ドーキンスによれば、人間の究極の欲望とは、つまるところ遺伝子の生存の欲望、つまり「自分が生きるため」、もしくは「自分が生き残るため」にはどんなことでもする、という利己の塊そのもの。そして、人間の身体はその利己的な遺伝子の「生存」の欲望の「乗り物」。一方、大乗仏教では、その欲望を乗せた人間の身体から、欲望自体を滅却し、涅槃、菩提へと向かう「乗り物」のことを、様々な経典がそれぞれに全力を挙げて説いているのです。

 遺伝子の「乗り物」はたった一人の人間の閉ざされた身体という自然で、「私」「自分」しか乗せません。けれども、大乗が乗せる衆生、人びとは無量で、測ることができません。

 その「乗り物」には「誰でも」乗ることができ、苦の連続、つまりは際限ない欲望とそれがもたらす苦の連鎖である輪廻転生から脱却し、涅槃に行くことができます。





 ここで、もう一度、本書でたどった仏教の流れをざっと振り返ってみましょう。

 それは利己的な遺伝子の「乗り物」にすぎない人間の、生物体としての欲望、つまり「自己愛」が宿命的に生み出す「争い」と「苦悩」をどうしたら減らし、滅することができるだろうか、という努力と模索の道すじでもあったのではないでしょうか。

 おそらくゴータマ・ブッダは、人間の生物体としての遺伝子の欲望を直覚していたのです。二千五百年も遠い昔に。そうして自分しか乗せない「乗り物」である人間が、そうであるがゆえに引き起こす究極の争い、自分の生存や、自分が生き続けるためには、どんなことでもする人間の、生存を賭けてのさまざまな争いを、ヒタと見据え続けたのです。その争いを自分自身の中にも見たし、あらゆる人びとの中に見た。その果てに、欲望滅却という「明」、すなわち「宗教的な叡智」を見いだしたのです。

 さて、ゴータマ・ブッダをはじめとする初期仏教では、涅槃への「乗り物」には基本的にはやはり「私」「自分」しか乗ることができませんでした。すべての欲望、執着、つまり我執を滅却すれば、すべては「空」。なにごとにもこだわりのない自在な世界が開け、すべてが透明な明るさのなかに安立する涅槃へと入ることができる。我執のない、関係性にとらわれない「愛」と「叡智」の海。そこにいたる道筋をゴータマ・ブッダは身を持って示したわけですが、それはあくまで自分だけの救われ、でした。「乗り物」はそれぞれの身体的自然の枠を超えることなく、自分だけのいわば専用車だったのです。

 けれども紀元一世紀頃から世界各地で、人間は自分だけで生きているのではない、誰かとともに常にあるのだ、という意識が明確になってきました。それを私は「他者の発見」の時代と呼び、大乗仏教もまたその意識を映したものと考えました。

 ゴータマ・ブッダによって示された叡智、涅槃、すなわち菩提のあり方と、そこへ至る道のりへの教えのなかに、大乗仏教は、自分だけではない、他の人びととの「ひとつながり」の感覚を投影したのです。そこに示されたのは、無量の人びと、「誰でも」の救われと、利他行を旨とする「慈悲」の姿でした。この「慈悲」は、「、(自らはだるを得ざるに、先にをす)」「(他を利するは即ち自らを利するなり)」という句が言うように、誰かの救われを優先し、その救われによって自分もまた救われる、という「菩薩」を生み出しました。これは、自分の生存の欲望の塊である生物という利己的な遺伝子に、真っ向から対立するものです。

 大乗仏教のそれぞれの経典の説く「菩薩」は、実にさまざまで、それはこれまで見て来た通りです。けれどもどんな「菩薩」にも通底するありかたは、無量の衆生の救われのための(永遠の修行)という利他行であり、その究極は、衆生それぞれが本来はすでに「菩薩」である、という意識にまで到達することになります。これは、「私」は「あなた」であり、「あなた」は「私」である、ということです。人は関係性の編み目の海に生きているのであり、そこでは「私」は独立、単一のものではありえない。かならず誰かを内に含み、また私も誰かに含まれる。人間についての、そういう認識がここで示されるのです。

 つまり、ここで起こっていることは、利己的な遺伝子の「乗り物」としての人間が、その乗り物のなかに「自分だけではない、他の誰かも、実は乗っているのだ」と「明確に感じ取った」ということです。そしてそのことを大乗の人びとは「明確に語った」。これはいったい、どういうことなのでしょうか?

 まず、遺伝子の「生き残り戦略」を見てみましょう。遺伝子の生存の欲望は、人間の身体を次々と乗り換えつつ、永遠の存続を目指します。世界でたった一つしかない自分の遺伝子を存続させるためにはどんなことでもする。その利己的な生存欲望を実現するための遺伝子の戦略は二通りあるそうです。一つは自分の生存を脅かすものには「闘い」を。つまり「戦争と殺戮」です。もう一つは、他の遺伝子を、周囲の気温や食物と同じように環境の一部として利用する「利用と協調」です。

 簡単に言えば、敵は抹殺、同調者は利用、ということで、これは人間のこれまでの歴史の図柄そのものと言えましょう。今日の世界もまた、発言力の大きな(つまりは軍事、経済力の大きな)国が、「おまえは敵か味方か」と叫んで、他国の動向を左右するのですから。

 では、大乗仏教に見られる「私」と「あなた」のありようは、この遺伝子の二つの戦略のうちの「利用と協調」の一つのバリエーションなのでしょうか? 「私」が「あなた」でもある、というふうに考え、相手を取り込む、もしくはとりあえず「共生」してゆく。「私」が「あなた」であれば、私とあなたとの衝突や争いは避けられる。けれども、人間の歴史は「昨日の味方は今日の敵」と教えています。すなわち、遺伝子の戦略は、あくまで自分が生き残るための、欲望実現のための方法論でしかありません。

 大乗仏教が示す他者意識は、これとは違ったものでしょう。それは遺伝子の欲望実現のための方法論、すなわち、場合によっては他者と協調、利用するという意識ではなく、人間という存在そのもののなかに潜む根源的な共生の感覚の発見だと私は思います。

 彼らは「菩薩」や「慈悲」のなかに、その共生の感覚を抽出して見せてくれたのだ、というふうに言うこともできるのではないでしょうか。ここで、他者は、遺伝子生き残りの手段や方法の一つとして、ではなく、むしろ「人間が生きることの目的」としてあり、さらにそこにこそ「生きる喜びがある」とするのです。そしてその共生の感覚は、誰もにある。すべての人びとにその種はあるのだ、と断言してもいるのです。





 さて、非常におおざっぱな言い方をするなら、およそ二千年前にインドの大乗仏教で生み出された菩薩と、みずから菩薩たらんとする人びとが世界中に満ちたなら、世界から争いや殺戮はおそらくなくなるでしょう。菩薩を目指した人びとが、二千年も前にいたにもかかわらず、今現在、そうはなっていない、ということ。そしてこの大乗仏教が、その後、必ずしも多くの人びとに受け入れられず、インドにおいても衰退した事実は、人間がいかに利己的な遺伝子に乗りこなされているか、を物語るものだと言えましょう。

 だとしても、私たちの先人は遺伝子の欲望、つまり人間の欲望的なあり方、生き方を超えた世界を人間存在そのものの中に見いだし、私たちに指し示してくれているのです。「誰かの痛み」を「私の痛み」とする心が少しでも多く働くなら、そのぶんだけ、苦海のこの世から、人間同士の宿命的な争いや殺戮を減らすことができるのではないでしょうか。 

 今、私たちの目には二〇〇一年九月十一日のニューヨーク・テロの映像が焼き付いています。その後も、世界各地で頻発するテロが、絶えずニュースで流れ、私たちを脅かしています。けれども、そういう衝撃の映像の影で、日常的に起きている世界各地の争いと殺戮について、私たちは素通りすることがほとんどです。「そんなこともあるんだ」と言う、他人事として。日本の平和な日々の背後に流れてゆくこれらの様々な状況。





  本書で、大乗仏教が目指すものは(最高の悟り)の完成であることを、私は強調してきました。そして、その無上菩提とは、「初発心時、便成正覚」、つまり心を無上菩提のほうへと差しむけたその瞬間に完成していながら、「無量劫に修行する」、すなわち永遠の修行であって、完了の時がないのです。なぜなら、菩薩が立てる誓願は「(生きとし生けるものは限りない、私は彼らを必ずや彼岸へと渡そう)」ということであり、人びとの苦悩が消えるときは恐らく永遠にないのですから。そうであるかぎり、菩薩は、私たちは、誓願というものの内に生きていくのではないでしょうか。

 私は、このことを考えながら、いつも立て掛けられた羅針盤を思い浮かべます。私たちの心は、壁に掛けられた羅針盤のようなもので、心の針は三六〇度を自由に回転する。その針は、自然状態では欲望という下方へと向かっていってしまいます。欲望は、まるで重力のように下方へと人の心を引っぱり続けていますから。

 しかし、なぜでしょう、私たちには、心の針を上方の無上菩提へと差しむけようとするときが必ずある。その力は、「仏性」という自己に宿る力に因るものなのでしょうか、あるいは「如来の加護力」といった上方からの導く力に依るものなのでしょうか。

 そのいずれであるにせよ、閉じられた人間の習性として常に下方の欲望へと向かおうとする心の針を、一瞬一瞬ごとに上方の菩提へと差しむけようとする力がそこには働いている。生ある限りに、です。それは「初発心時、便成正覚」、つまり瞬間毎の完成と、「無量劫修行」、すなわち永遠の未完成との不可思議なる同時成立とでも言えましょう。

 現実の人間、私たちとは、そんな常に下へと向かおうとする「欲望的な利己性」と、それでも上へ向かおうとする「共生への願い」、そして「共生の喜び」との相克、葛藤のうちに生きる存在なのではないでしょうか。だからこそ、共生への誓願が、いっそう輝きを増してくるのです。

 私は本書の最初に、菩薩の「誓願」のことをお話しました。最後にもう一度、この「誓願」を繰り返しておきたいと思います。

 今もどこかで流される血、流される涙。この「世界苦」をすべての人びとが我がもの、自分の苦悩として感じ取ることができますように。

 私たちがそれぞれに、「誰かの痛みは、私の痛みだ」と感じ取ることができますように。

 少しでも、「世界の誰かの痛み」をとりのぞこう、と、私たちみながそれぞれに努力できますように。